- HOME
- 看護論的経営論
看護師という職業になって変わった事
昨日、仕事が終わった後同じ職場の人に
「今日は、用事ない?」
と聞かれた。どういうことかと思い、普通に
「別にないですよ」と答えると、
「飲みにいこか!」とのお誘い。
最近は、子どもとの時間が楽しく、飲みに行ったりするのは避けてばっかりだったのだが、今日はわけが違う。その人は、ここ数日見ているだけでも、仕事でストレスを受けているのがわかった。
そう、職場での人間関係である。
特に、周りの人とうまく関われていないというわけでもないのだが、仕事っぷりが上司には悪いように伝わっているらしく、それを上司から直々に色々といわれたというのだ。
その夜、お約束のはしごで飲み歩き。
私が、師長を評価するのはさておき、同僚がストレスを受けているのは事実。仕事上も私が見る限り何の問題もなく、普通に仕事をこなしている。積極性に欠けるというわけでもない。同僚がこの程度で色々と指摘されるのなら、私はどうなる・・・。他のスタッフもそれ以上の指摘をされてもよいほど些細な事をの内容を師長からいわれていたようだ。
人間というものは、自分に都合のいい風に言葉尻を変えて相手に話してしまう特徴があるので、話を聞いても、そのまま言葉を受け入れないようにしているのだが、今回は私達が意識すれば見える、耳を凝らせば聞こえるという場所で話をしていたから、私もいくらか事情は把握していた。私の知っている実際と同僚の話を比べても、特に都合のよいように話している風でもなかった。
師長対同僚の形も人間対人間であるから、どちらも一長一短はある。私の記事でそのやり取りを分析する事は私的に好ましくなく、極力避けたいので、その内容には触れない。
昔であれば、人の話など聞いても完全に他人事のように話を聞いていたが、今は、どうにかしてあげたいという気持ちが強い。そうすることで、生憎不利益をこうむる事も少なくないのだが、その時の“損をした気分”は一時的なもの。
一人の人間が多数の人間に力をばら撒く事には限界があることは承知している。しかし、できる範囲で人に力を貸し、協力できればといつも思っている。話を聞くために“私自身の時間を割く”というのも、そのうちの一つ(力を貸す事)に含まれるのではと思っている。
看護師になってから、かなりそういう気持ちが強く、ボランティアへの興味も強く、状況が許せば海外のボランティアにも加わりたいと思ったりもしている。
看護師の対象は、患者だけではなく人間そのものであることを忘れたくはない。
対象は、病院という経営の管理下にある人間だけではなく、病院外でも身体的に健康でなくなっている人間にも看護の手を差し伸る必要があろう。もちろん、病院外で精神的に健康でなくなっている人々にもその手を差し伸べることが出来ればと思っている。日々の活動は、その誰も評価しないであろうところから行っていく事が、自分の看護観を高めることに繋がるように思う。結果として、二日酔いという不利益を生じさせたのは、私が未熟なだけなのだが・・・・。
最後までご閲覧いただきありがとうございます。拙著本「精神科看護師、謀反」も看護の参考にしていただければ幸いです。