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先見の明
いよいよ明日は、面接。着慣れないスーツにネクタイを着用、ビシッと決めていかねば。履歴書をもう一枚書かなくてはならないのですが、子どもを寝かしつけてる間に自分もウトウト・・・・zzzz。と、これでは流石に受かるものも受からなくなりますので、今眼をこすってブログを更新。その後に、続けて履歴書とスーツの準備です。とまぁ、こんな風に、着々と就職活動を行っているわけですが、自分の性格からして、ただ稼いで遊んでの繰り返しは納得ができません。バリバリ働いて、地位も名誉も築いて、そこでドカット遊ぶ。これですよ、男に必要なのは。と、自分の価値観をここでぶちまけても仕方が無いので、この話はこれくらいにしておきましょう。久々に、バシッと看護論をぶちまけましょうか。以下どうぞ
題名にある“先見の明”だが、単純には「将来を見据える眼」とでも言おうか。私には、残念ながらこのような“眼”は無い。しかし、対象のものを常に予想しながら動くことは必要だろう。よって、見据える力があろうが無かろうが、その対象は将来どうなるかということを予測しながら動くことが人間の本能からみれば、当然の原理原則といえる。今回の私に当てはめれば、対象は“病院”がそれにあたるとお思いの方もいるだろう。それも間違ってはいないが、最も対象とするものはそれではない。実は“看護そのもの”にある。将来日本の看護はどうなるのかを見据えたうえで、次の職場探しにあたらなければならない。そして、将来の看護がどうなるか予想できれば、“では、自分はどのように経験を積んでゆけばよいのか”ということを自然と考えるようになる。今は、その思考を持っていることを自覚することが私の仕事だろうと考えている。
私が、以前から病院全体(特に個人病院)の組織体系に問題があることを訴えてきたことはご存知かもしれないが、その延長論として、本来、看護師などのもの流動的でなければならないということを付け加えておこう。看護職は、一定の場所に収まることはできるだけ控えることが私の理想である。しかし、看護師の流動性を高めようなどという話は、現状、夢のような話。その妥協策としてあるのが、“看護の専門性”なのである。看護の専門性は、必要不可欠であるが、各科の専門性を極めたがゆえに不足している部分をフォローする看護師も必要となってくるはずである。それを育てるには、日本の病院組織のあり方を根本的に見直さなければならない。つまり、病院は
※看護師の流動性を高めること
を目指さなければならない。これは単純に、職場を転々とさせることを指すのではない。日本の病院組織構造を改変させることがまず先決であり、その次に行うことがこの“流動性を高める”ということである。そこには、私の著書でも述べたように、病院の株式化という構想は切っても切り離せないものとなってくるのであるが、看護師の流動性と病院の株式化という問題については、ここで簡単に話せるものでもない。また、少しずつでも噛み砕いて話していくことにしよう。
ということで明日面接に行けば、面接だけでも新たなものが見えてくるはずだと思っています。おやすみ。